福浦(ふくら)と黒島(くろしま)。
能登において同じ北前船で繁栄した町であっても、その成り立ちや特徴は、港の有無によって大きく異なるという。
では、どんな点が違うのか。
また、「能登半島地震」で特に大きな被害を受けた黒島は今、その面影をとどめているのか。
二つの町に残された北前船の遺産、人々の姿を通して見えてきたものとは。

北前船の航路
能登から届いた一枚の葉書

北前船ゆかりの地

 輪島市門前にある「曹洞宗大本山總持寺祖院」の雲水から、思いがけない葉書が届いたのは4月の下旬のこと。掲載誌を送付したことへの御礼の文面と共に、3月25日の震災で地域の人々は皆苦労しているが、何とか元気にやっているという内容だった。
 能登の北前船の連載最終回を迎えるにあたって「輪島市門前町黒島」を再び訪れようと決めたのは、ちょうどこの葉書が手元に届いた頃のことだった。震災からおよそ1カ月経った能登半島で、人々や北前船の遺産はどのようになっているのか、また今後どうなっていくのか。能登半島の北前船の歴史を語るうえで外せない場所であり、震災の被害が大きかった黒島の町を、この目でどうしても確かめたいと思ったのだ。
 能登空港から目的地に向かって車を走らせる途中、進路を変えて立ち寄った和倉温泉では、地震以来、安全点検のために休業してた「加賀屋」が再開の日を迎えていた。約800名のお客様で今日は満室だと、準備で慌ただしい中、宿の方が笑顔で語ってくれた。温泉街にいよいよ活気が漲(みなぎ)ってきた姿を目の当たりにし、喜ばしい気持ちでいっぱいになった。
 輪島の朝市も、地震直後に訪れた前回とは比べものにならないほどの賑わいを見せていた。威勢の良いおばちゃんたちの声に引き寄せられるようにして、テントの前に並ぶ観光客の姿があちらこちらで見られる。晴れ渡った空の下、地域住民たちの復興への底力が輝いていた。
 さて、黒島の町は北前船の大船主が活躍し、總持寺の僧侶たちが行き交った当時の町並みや文化が、色濃く残されている地域だ。当初から取材に協力してくれている「石川県立歴史博物館」の学芸専門員、濱岡伸也(はまおかのぶや)さんは、
 「北前船によって栄えた能登半島沿岸の町の中でも、黒島は『港を持たずに繁栄した町』です」
 という興味深い言葉を口にしていた。
 同じように北前船で栄えた能登の町でも、「港があった町」と「港がなかった町」では町の特徴が異なっていたと、濱岡さんは言う。
 それはどのような違いだったのだろうか。その差異は現在も見つけられるのだろうか。まずは「港を備えていた町」である「福浦」を訪れてみることにした。

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全国の船を迎え入れた福浦

瀬戸松之さんと金比羅神社内にぎっしり並んだ絵馬
瀬戸松之さんと金比羅神社内にぎっしり並んだ絵馬

黒島に残された北前船の帆桁。後ろは天領祭に使われる曳山
黒島に残された北前船の帆桁。後ろは天領祭に使われる曳山

 「旧福浦灯台」のそばに立つと、春の穏やかな日射しの中、深く内陸に切り込んだ入り江が眺められた。
 福浦は元禄時代から幕末にかけて、諸国の北前船が出入りする「風待ち港」として賑わった町だ。
 「小さいながらも、この入り江が福浦を天然の良港にしていました。また、海底までの深さがあったから波が立たず、船が入港しやすかったようです」
 と、福浦の歴史に詳しい瀬戸松之(せとまつゆき)さんは語った。当時は、港に出入りする北前船の水先案内人もたくさんいた。
 港を見下ろす日和山(ひよりやま)には、その当時使っていた「方位盤」や停泊する船を繋いでいた「めぐり」などが現在も残る。水先案内人たちは、この山から港を見下ろし、担当の船の帆印を見つけると港まで迎えに出ていた。
 日和山の岬には、海の神様である金刀比羅(ことひら)神社が建てられている。瀬戸さんは神社の鍵を開け、中へと招き入れてくれた。社の中には、四方の壁にぎっしりと船絵馬が飾られていた。航海の安全を願って奉納された絵馬は、年代や絵柄も多様だが、
 「願主も大坂、越後、松前城下など、全国各地の船主です」
 と、瀬戸さんが説明してくれた。
 少し内陸にある猿田彦(さるたひこ)神社には、「毎年神船簿(しんせんぼ)」というものが残されている。この神社では、北前船の当時から祭りで「御神船(ごしんせん)」を決める制度があり、おみくじを引いて当たりが出た船には、神社の御輿(みこし)を積んで航海できる権利が与えられていた。その神船になった船を代々記載したものが「毎年神船簿」である。福浦の御輿を積んだ船は、全国の港にスムーズに入港できるという特権があった。
 また、3年は無事に航海できるという言い伝えがあったため、毎年神船の希望者は殺到していたようだ。その写しには「寛保3年(1743)8月11日、播磨國荒井(はりまのくにあらい)、明神丸(みょうじんまる)、船頭伊平」から始まって、大正7年(1918)まで、全国から選ばれた神船の記録が克明に残されている。北前船が栄えた当時、福浦の町がいかに各地からの船で賑わっていたかが目に浮かぶようだ。
 諸国の船が訪れた福浦の町は、船員相手の商売で華やいだ。港近くには船宿が20軒程度あり、「免許地」という置屋(おきや)が数十軒並ぶ一角には、遊女が70〜80人いたという。現在では色あせてるが、京町家風のベンガラ格子の家々が残り、当時の隆盛をしのばせる。
 こうした遊郭跡や灯台、神社に残された絵馬などを見ると、全国の船の関係者との商売で、福浦の町は栄えていたことがうかがえる。

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地元の船主が繁栄をもたらした「黒島」

間口に家財を飾った黒島の家
間口に家財を飾った黒島の家

天領祭のための装飾をした角海家
天領祭のための装飾をした角海家

平成16年8月の天領祭の様子
平成16年8月の天領祭の様子

「能登名跡図」に描かれた黒島(上)と福浦(下)
「能登名跡図」に描かれた黒島(上)と福浦(下)

 一方、震災後、初めて訪れた黒島の町は復興の最中にあり、大工や職人たちが町の中を往来していた。
 「昔ながらの家ばかりだったから、地震には強くなかったのでしょう」
 と、黒島で生まれ育った濱岡さんは語った。黒島の家々は土壁でつくられていたし、さらに独特の習慣と関連して「間口を大きく」、「襖を外すと広い一間になる」など、柱が少ない構造的特徴を持つ。地震ではこの造りが裏目に出てしまったが、これはそもそも北前船で京都から運ばれてきた文化だった。
 黒島は、江戸時代末期には多くの者が北前船に関わる仕事をして村が成り立っていた。栄えた時期は異なるが、番匠屋(ばんしょうや)や角屋(かどや)(角海家(かどみけ))、森岡屋など合計十軒程の巨大廻船問屋があった土地だ。
 港のない黒島では、訪れる船は地元の関係者のものが主だった。母船は沖に停泊させ、小船で浜と沖とを行き来して物品を出し入れしていた。黒島の町の繁栄は、他所(よそ)の船員たちに対しての客商売ではなく、北前船での交易が地元の船主、船員たちにもたらした夢のような収益によるものだった。
 さて、黒島の家の構造は町に伝わる「天領祭(てんりょうまつり)」と深い関わりを持っている。城を形取った2基の曳山(ひきやま)が通りを練り歩くこの祭りでは、いつの頃からか家々が間口を開け、襖を外して広い場所をつくり、屏風を立ててその前に家財を飾るという風習が始まった。近所同士で「北前船でこんなに繁栄した」ということを競って見せ合うためだったが、家の造りや家財を飾る祭りの形式は、京都の祇園祭で行なわれている「屏風祭」とよく似ている。おそらく「祭り」の方法が北前船によって京都から輸入され、廻船業で繁栄して住民の繋がりが強い黒島に、地元で楽しむ慣習として根付いたのだろう。
 黒島の町にある「天領北前船資料館」の谷内淳子(やちあつこ)さんに、収納されている巨大な曳山を見せてもらった。曳山を回転させる木の棒は、北前船の帆桁(ほげた)の部分を使っていた。がっちりとした丸太は、当時から受け継がれてきた伝統の強さを物語っているようだった。

    *    *    *

 このように福浦と黒島、同じ北前船で栄えた町といっても、北前船がそれぞれの町にもたらしたものはずいぶん違う。能登を旅する時は、それぞれの特徴に注目して二つの町を訪れてみるのも面白いだろう。
 今回の震災で、古い家々が被害を受けたと聞くと、町は昔ながらの姿を全て失ってしまうかのように思えるかもしれない。しかし、地震の直後、黒島には自分の畑から野菜を採り、近所の人々が助け合って炊き出しをしている姿があった。それは、昔から変わらない住民同士の輪や信頼感が、震災を乗り越える力を生んでいるように感じられた。
 町の再建に向けて力強く働く人々や、再びスポットを浴びる日を願って曳山の修理をした天領北前船資料館の方々。再出発した能登の地に、こうした人々がいる限り、北前船の文化、遺産はこの土地に継承されていくだろう。
黒島から見た日本海
黒島から見た日本海

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