2007年3月25日、震度6強の地震が能登半島を襲った。
ニュースでは輪島市門前町を中心に、おおきな被害の様子が伝えられる。能登の人々は、そして北前船がもらたした文化はどうなってしまったのか。
しかし、震災の翌日に向かった能登では、「輪島塗」の職人や朝市の人々が、前と変わらぬ様子で仕事を続けていた。
今号で取材を予定していた「黒島」はちょうどその地域に該当する。北前船が繁栄を誇った時代に、廻船問屋が軒を連ねた歴史ある場所だが、残念ながら今回は訪れることが困難になってしまった。しかし、ほかの地域で訪問を予定していた人々は、幸いにも被害が少なく、快く取材を受け入れてくれた。
「かえって元気づけられるので、能登の取材に来てください」
という言葉に感謝の気持ちを抱きながら、飛行機で能登半島へと向かった。そこで今回は、輪島塗や食文化など、北前船がこの地に築き上げた文化を辿るとともに、震災でどのような影響があったのかを探ってみたい。
翌朝、日本最古の木造灯台「旧福浦(ふくら)灯台」が残り、北前船が寄港する港町だった福浦を訪れた。町並みも人々も、そして半島から見渡す日本海も非常に穏やかな姿だった。
「旧福浦灯台は、もともと港に入港する船の目印として、高台に篝火(かがりび)を焚いたことが始まりです。現存する灯台は、明治10年(1877)に建造されたものですが、頑丈に建てられているからね、地震でもびくともしないですよ」
と、町の歴史に造詣(ぞうけい)が深い 瀬戸松之(せとまつゆき)さんは、89歳とは思えない矍鑠(かくしゃく)とした口調でそう言って笑った。瀬戸さんのその一言と元気な姿から、胸に安堵の気持ちが広がった。
輪島の朝市は、神社の祭日の度に立った「物々交換」の市が起源で、平安時代から千年以上の歴史を持つ。震災から2日後、すでに朝市は再開されており、訪れたこの日もオレンジ色の天幕を張った店々が、品数は少ないながらも野菜や魚を並べて売っていた。「商売人は、いつまでもぼやぼやしていられないからね」と、朝市通りから少し脇道に入ったところに輪島塗の店「塗太郎(ぬりたろう)」を構える中宮春男(なかみやはるお)さんは言った。
「塗太郎」は創業およそ250年。完成までに要する120を超える工程は分業化され、多くの下塗り職人と、たった一人の上塗師がひとつの品を作り出すという、厳しい世界を受け継ぐ輪島塗の老舗だ。
北前船が往来していた江戸時代、輪島は「親の湊」と呼ばれて多数の船で賑わった土地で、久保屋喜兵衛(くぼやきへえ)に代表される有力な廻船問屋が活躍する、海上交通の拠点のひとつだった。そして、そもそも輪島が廻船業で栄えたのは、輪島塗の発展とも関係しているのだと、中宮さんは能登に漆器が伝来した経緯から紐解き始めた。
輪島塗の歴史は、室町時代にまで遡る。和歌山県にある根来寺(ねごろじ)の僧侶が能登を訪れたときに、湿度や温度などの気候条件が漆芸に適していたことを見抜き、製法を伝えたのが始まりだった。
当初、能登の漆職人たちは神社仏閣の漆塗りを主立った仕事にしていた。「塗太郎」の店内は、柱や階段などが漆によって見事に黒光りしており、当時の技術がいまも生きているように思えた。
江戸時代に入って北前船で物流が活発になると、輪島や黒島などの港も俄に賑わいをみせはじめる。交易で「物が売れる」ようになると、漆職人たちは寺社の仕事を離れ、徐々に腰を据えて漆器を作りはじめ、輪島塗は生産量を増やしていった。生産量が増えれば、売り捌く人々も自然と集まってくる。輪島には廻船問屋がひしめき、船で各地へ漆器が運ばれ、「輪島塗」は全国にその名を馳せるようになっていった。
江戸後期から明治初期まで、北前船を媒介に、西は山口県、北は北海道まで輪島塗が運ばれていった。各地の有力な庄屋が来客のもてなし用に使う御膳や御盆などが、当時の主力商品だったようだ。
その後、北前船の衰退と共に、明治期には輪島塗の需要は落ちていった。輪島だけでは商売にならないと思ったのだろうか、「塗太郎」の先々代の当主は、大正12年(1923)の関東大震災の後、東京に輪島塗の工場を構えた。それを機に料亭で使用する器の注文などが増え、輪島塗は復興を遂げる。
工房で、中宮さんが語る。
「北海道の小樽にあった『ニシン御殿』が、現在は旅館になっていてね。そこからの注文品をいま作っています」
地震前と少しも変わらぬ張り詰めた空気の中、職人たちは丁寧に器に漆黒を塗っていた。
輪島から半島の東側を南下して行くと、能登島が浮かぶ湾に沿って和倉温泉が見えてきた。全国でも有数の温泉地であり、良質な湯が豊富に湧く温泉として観光客で賑わう和倉も、地震の後も変わらずに営業中だ。
明治に入ってこの和倉温泉の開発に携わったのが、門前町黒島で廻船問屋として栄えていた「濱岡屋」だった。能登の各地と北前船は、切り離せない深い関わりがあって驚いてしまう。
北前船が運んだ食材、「昆布」は、いかなる文化をもたらしたのか。それを知るために、和倉より少し東、同じく湾に面した七尾市に足を運んだ。この地で、毎年ゴールデンウィークに開催され、「でか山」という巨大な曳山(ひきやま)が町を練り回る迫力ある祭り「青柏祭(せいはくさい)」。その祝い唄として伝わる「七尾まだらの脇唄」の歌詞に、「新造(しんぞ)つくりて 松前
下る 上る中荷は昆布ニシン」とある。
新しく造った船が北海道の松前まで航海すれば、帰りの船荷は海産物で溢れると唄ったものだ。北前船が往来した西回り航路は、別名「昆布ロード」とも名付けられている。
七尾駅近く、一本杉通りに面した「昆布海産物處しら井」は、創業昭和6年。しかし北前船で賑わった当時の町屋を再現し、現在も北海道から海産物を仕入れるというこだわりを持つ店だ。店内には、釧路や利尻産の貴重な天然物の昆布や、加工した海産物、地元能登の魚醤(ぎょしょう)「いしり」などが丁寧に陳列されている。女将の白井洋子さんは、先代から当時の話を受け継いでいる。
「灯台が無かった頃は、この辺りにあった大きな一本杉を目印にして船は入港していたそうです。当時、七尾に運び込まれた昆布は、ここで『とろろこんぶ』などに加工され、輪島や珠洲(すず)の行商人が買い入れに来ていました」
昆布の他にも、干し数の子や本乾(ほんかん)ニシンなどが七尾の港に陸揚げされ、各々の店で加工していたのだという。
店の2階には、北前船の船金庫や港に停泊する明治時代の北前船の写真などが展示、公開されていた。
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「塗太郎」の中宮さんはこう言った。
「リセットは、再興へのきっかけです。輪島塗は、戦争で再び衰退しましたが、その後、破壊の中から立ち上がろうとする人々の力によって、また現在のように復興しました。だから、今回の地震は、輪島塗や能登がまた新たな光を浴びるチャンスだと信じています」
北前船の衰微(すいび)と共に失われたように思われがちな当時の文化だが、能登を旅すれば至る所にその面影が残されているのに気がつく。当時のままの建物もあれば、流通の形態を変えて残っている文化や食もある。衰退をチャンスととらえ、伝統の上に新たな文化を生み出した能登の人々の逞(たくま)しさがそこに感じられる。
震災直後であっても、町の復興で動き回り、決して悲観することなく力強く働く人々の姿に、北前船で繁栄した能登の新たな芽吹きを感じた。
輪島港にて