かつて、日本海側が「表日本」と呼ばれ、交易によって栄えた時代があった。
能登の北前船主たちは、海運業で巨万の富を築き、寄港地は大いに賑わったのである。
そして、北前船がもたらしたのは交易品だけではなかった。
大庄屋であり、北前船を五艘も所有していた上時国家と、船で全国のネットワークを組織した曹洞宗(そうとうしゅう)大本山・總持寺祖院。
能登の北前船の二つの拠点を通して見えてくるものとは。

平家の末裔と北前船

北前船ゆかりの地

 今年は暖冬で、例年と比べて殆ど雪が降らないと地元の人は口々に言う。それでも私が訪れた日は、垂れ込めた雲が空を覆い、海風にあおられて粉雪がちらほらと舞いはじめていた。耳が痛くなるほどの寒さのなかで、海岸線に押し寄せる波を眺めながら、ここ北陸の地・能登半島の沖合に、かつて浮かんでいた幾艘もの船の姿を思い描いた。
 北前船(きたまえぶね)が日本海を航行していたのは、江戸時代から明治時代初期のことだ。 当時、蝦夷地(北海道)からの物資を、日本海から関門海峡を経て大坂へ運ぶ西廻り航路が栄えたため、日本海側に物や情報が集積し、こちらを「表日本」と呼んだこともあったという。ここ能登の地でも、多くの北前船の船主たちがその繁栄を謳歌した。
 そんな国の経済をも動かすほどの影響力を持った北前船だったが、明治以降、輸送手段が船から陸路に変化してからは徐々に衰微し、現在ではその面影を想像するのも難しくなってしまった。

上時国家

門へと続く坂道
上時国家(上)と上時国家の門へと続く坂道(下)

 しかし、一時代を築いた北前船の幻を追って訪れた能登で、当時の船主たちが住んでいた町を歩き、海を眺めるうちに、ある疑問が湧き上がってきた。 北前船はなぜこの地にそれほどの繁栄をもたらすことができたのか、そしてこの地の人々は、なぜ今も北前船に強い郷愁を抱いているのか。実際に北前船を駆使していた人々のことを知れば、その答えが見えてくるかもしれない。そう考え、北前船で財を成した上時国家(かみときくにけ)の屋敷を訪れた。
 屋敷は小高い丘の上に構えられていた。庄屋というと田園が目の前に広がる屋敷をイメージするが、それとは異なり、丘の麓から門へと続く、真っ直ぐな坂道が印象的だった。
 現在の輪島市、かつて天領(幕府直轄地)の大庄屋であった上時国家が北前船で最も繁栄したのは江戸時代後半、文化文政期(1804〜30)前後の数十年間だった。 遡れば僅か数代前の出来事なのだと実感させられたのは、一枚の系図を目の当たりにしたときだ。
 「21代目当主・左門時輝(さもんときてる)は、八百石ほどの北前船を五艘所有して、盛んに交易をしていました」
 と、時国家24代目当主の御夫人である時国あやこさんは、囲炉裏端で家譜(かふ)を指し示しながら語った。
 その昔、「平家にあらずんば人にあらず」という言葉で有名な平時忠が能登に配流され、その息子である時国が、この地で近隣の村々を統治・支配したのが、庄屋としての時国家のはじまりだった。
 時国家は、集落で生産されていた炭や豆、曽々木(そそぎ)海岸で作られていた塩などの特産物を近隣で売買するために船を用いるようになった。徐々に航海の範囲は広がり、左門時輝はその商才を発揮して北前船を盛んに往来させ、富を築いた。大坂へ向かう上り航路では、土地の産物を積み、下りは鰹節(かつおぶし)、生姜(しょうが)、椎茸などを運んだという記録が残されている。千石船が一航海で千両稼ぐといわれた時代、時国家の栄華が偲ばれる。
 また、現在も屋敷にはさまざまな船用品が保管されているが、なかには伊万里焼の皿や、地方では手に入らないような多数の蔵書もあるという。おそらく大都市で買い込み、船で能登へと持ち帰って来たのだろう。北前船は、各地の文化や情報を運ぶ役目も担っていたことがうかがえる。
 「当時の屋敷は、海岸から町野川(まちのがわ)を300メートルほど遡った脇にあり、曽々木海岸に船が着くと、そこから小舟で川を上って荷物を運搬したようです」
 と、あやこさんは続けた。敷地内には七棟もの建物が並び、酒蔵や塩蔵などの施設が完備されていた様子も古文書に記されている。ところが低地であったために河川の氾濫に遭い、天保2年(1831)に現在の丘の上へ新しい屋敷を建てた。屋敷の普請は京都で宮大工の経験を持つ地元の大工・安幸を棟梁に、28年もの歳月をかけた。最高級の部屋は書院造りで、天井は壁際部分を曲線にした折上格天井(おりあげごうてんじょう)と呼ばれるもの。格子状の仕切りは黒漆に金縁を施した豪奢(ごうしゃ)なもので、かつての繁栄を象徴している。だが、屋敷を建て直してから暫く経つと、時代の流れと歩みを同じくして、時国家も北前船から離れていった。
このページ先頭へ
人の交流で伝播したもの

總持寺祖院

總持寺祖院
總持寺祖院

北前船の航路
北前船の模型
(石川県立歴史博物館蔵)

黒島の森岡屋にて
黒島の森岡屋にて

 北前船は交易品を運ぶことが主な仕事であったが、それだけではなく、別の重要な役割も担っていたことが、能登半島を取材して見えてきた。
 總持寺祖院の「輪住制(りんじゅうせい)」もそのひとつだ。
 輪住制とは、かつて曹洞宗大本山であった總持寺を支えていた特異な仕組のことで、総本山の住職を、全国各地にある末寺の僧侶たちが交代で務めるという珍しいものである。短期間に交替し、輪番に住持することで責任の分担をすることができ、また住持職の相続争いによる分派を防ぐとともに、多くの人が住持としての名誉を取得できる効果があった。
 總持寺の荘厳(そうごん)な山門を潜り、静寂の なか「ロ」の字型の回廊をゆっくりと歩く。黒い袈裟をまとった僧侶たちは、擦れ違う際に、凛(りん)とした身のこなしで挨拶をすると、夕方の勤めのために次々と仏殿へ入っていった。
 その廊下で、一点の版画が目に留まった。それは、僧侶たちが船に乗って海を渡ってくる様子を描いたものであった。
 總持寺は、福井県の永平寺(えいへいじ)で修行した、瑩山禅師(けいざんぜんじ)が開創した曹洞宗の寺院だ。永平寺と總持寺は、いまでは二大本山と呼ばれ多くの信仰を集める。その螢山禅師のあとを継いで、總持寺を発展させた峩山(がざん)禅師が、貞治(しょうじ)3年(1364)に定めたのが輪住制である。
 全国に次々と末寺が建つと、75日交代で各寺院から上って在勤するようになった。貞治5年(1366)から明治3年(1870)の廃止に至るまでのおよそ500年間、実に5万人近い僧侶が住職を務めたという。
 そして、全国から輪番住職を任された僧侶たちが、本山を往復するために利用していたのが北前船だった。
 「僧侶たちが黒島の港に到着すると、そこから總持寺までおよそ4キロメートルの道のりを、大名と見紛(みまが)うような行列を成してやってきました」
 輪島市門前町郷土史研究会長の佃和雄(つくだかずお)さんが、当時の様子を語ってくれた。
 一人の輪番住職には、弟子や檀家(だんか)、世話人など総勢百人余りの人々が旅を共にしていた。船から下りた人々は唄をうたい、列を成して僧侶が乗る駕籠(かご)と一緒に寺院へ赴いたのだという。
 当時、輪番住職について来た人々の中には、そのまま寺院の近くに移住する者もいた。黒島の町の北前船主・森岡屋も、岩手の僧侶について能登に来て、移り住んだ者のひとりだ。もとは盛岡屋といい、黒島では總持寺の御用達としてその名を馳せることになる。
 また、總持寺本山では、能登の特産である輪島塗の漆器を使って食事が供されていた。輪島塗が全国へ広まったのは、本山へ上がった僧侶たちが各地へ帰る際に持ち帰ったためである。地元に帰る僧侶には、輪島の人間が船に乗り込んでお供をし、僧侶の暮らす町で漆器を売り込んだという。北前船を利用して、このようなビジネスも盛んに行なわれていたのだ。
 さて、末寺から赴く住職は、供回りを含めた往来費用と、在勤中の諸経費はすべて自弁だったという。つまり、有力な寺の者しか本山の住職は務めることができなかったのである。力がある僧侶の元へはその土地の様々な情報が集まってくる。そしてその僧侶たちが北前船で全国を回る。そう考えると、近代的な大企業と同じように、總持寺は北前船を使った巨大な情報ネットワークを構築していたといえるのである。
 明治31年(1898)に大火に見舞われると、總持寺は大本山としての機能を横浜市鶴見へ移転した。それは、鉄道時代の幕開けと共に、「表日本」が太平洋側へと移ったことを悟ったうえでの決断であった。
     *    *    *
 かつて日本海側が「表日本」と呼ばれるまでに栄えた理由は、物資の供給によるものばかりではなかった。船によって人々が行き交えば、各地方の技術が他地域に伝わる。原料が運ばれて技術がもたらされれば、食文化や工芸が伝播する。
 北前船は、単に物を運んだだけの交易船としての姿がすべてではない。それによって移動した人や情報があったからこそ、現在までその面影が語り継がれるものになったのだろう。
 總持寺御用達の船主・森岡屋があった黒島の町には、家々の様式や祭りの風習に、北前船がもたらした情報伝播の痕跡が残されているという。
 次回は、大船主たちが活躍し、北前船で賑わった黒島を取り上げる。

このページ先頭へ