石川県、能登半島。
日本海に大きく突き出すその地理的条件ゆえ、
古くから日本海の交通の要所として、経済や文化の交叉点となってきた。
そして能登の海運を担い、繁栄をもたらしたのが江戸時代の「北前船」である。
日本海航路が、能登半島に残した文物や町並みを辿りつつ、
北前船に海洋の民、能登人(のとびと)たちが託した夢を追っていこう。

北前船ゆかりの地 北前船の航路
航海の度に「倍倍」に儲かった


上時国家(国指定重要文化財・名勝)
能登に流された平家の大納言・平時忠を祖とする

 「千石船(せんごくぶね)、一航海で千両稼ぐ」
 往年の北前船(きたまえぶね)の繁栄ぶりを示した言葉である。現代の貨幣価値に換算すると、千両はおよそ一億円。米を千石積載できる北前船は、約210日間の航海で、千両もの大金を稼いだという。
 さらに、「バイ船」という呼び方もある。日本海を行き来した北前船は、航海の度に「倍倍方式」で儲かったことから生まれた言葉だ。
 危険な航海と引き換えにそれほどの財をもたらした「北前船」とは一体どんなもので、どんな役割を果たしたのか。遠い昔に活躍した北前船の姿を追って、その栄華の遺産が残るという北陸は石川県、能登半島へと向かった。
 羽田空港から40分ほどで能登半島の上空へ。雲間から入り組んだ海岸線を眺めるうちに、飛行機は滑るように緑に囲まれた能登空港に着陸した。つい一時間前には都会の喧噪にいたのが嘘のようだ。さらに車で輪島の市街地を抜けて、山側の道へ入った。田園のなかに見事な門構えが威容を放つ。石段を上って門を潜ると、目の前には茅葺きの大屋根を持つ、巨大な家屋が佇んでいた。「上時国家(かみときくにけ)」の屋敷だ。
 上時国家は、天領(幕府直轄地)の大庄屋であると共に、北前船で巨万の富を築いた海運業者である。現在、屋敷は資料館になっており、当時使われていた船箪笥や千石船用品、家具調度品などが展示されている。
 室内は、金箔で文様が描かれた襖や、緻密な細工を施した欄間など、民家であったのが信じられないほどの豪壮な造りで、当時の隆盛をまざまざと思い知らされる。黒漆と金箔を塗った天井縁を持つ「大納言の間」は、この家を訪れた加賀藩主でさえ、その格式故に「入ることができない」という言葉を残したほど。贅を尽くした屋敷は、能登の繁栄を支えた北前船の遺産が、この地に確かに根付いているのを証明しているかのようだった。

 海上輸送が黄金期を迎えた江戸時代、商売のための荷物を積み、各地の港に立ち寄りながら大坂から蝦夷地(北海道)まで往復した交易船を、当時の人々は「北前船」と呼んだ。京都や大坂を「上方」というように、山陰方面の人々が、能登半島を含む北陸地方を指して呼んだ言葉が「北前」であった。
 「北前船が日本海を駆け巡りはじめたのは、江戸時代の前半からでした」
石川県立歴史博物館の学芸専門員、濱岡伸也さんはこう語り出した。
 江戸時代、日本経済は米を主体に据えていた。各地で年貢として納められた米を、大消費地である江戸や大坂で売却し、現金に換えて収入にする方式である。
 寛永16年(1639)、加賀藩三代藩主・前田利常は、藩米を効率的に大坂に輸送するため、日本海から山陰を回って関門海峡を通り、瀬戸内海を抜けて大坂へ至るルートを開拓。これが、北前船航路の原形となった。
 その後、寛文12年(1672)に、日本海側の東北諸藩からの年貢米の輸送期間を短縮するために、幕府は山形県酒田から江戸への「西廻り航路」の開発を命じる。担当指揮官となった河村瑞賢(かわむらずいけん)は、加賀藩が考案したルートの途中に寄港地を定め、入港税の免除や水先案内船を整備して航路を確立した。
 それに伴い、それまで輸送の中心になっていた漁船とは異なる、長距離航海に耐え得る「和船」が開発される。弁才(べんざい)船や千石船と呼ばれる船のなかでも、大きさがおよそ五百石から千石の船が、「北前船」として採用された。新しい航路ができ、航海に適した船が生まれたことで、大坂と蝦夷地までを行き来する北前船の基盤が誕生したのである。

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米がとれなかった能登だからこそ


北前船が寄港した福浦港の日本最古の木造灯台、旧福浦灯台


石川県立歴史博物館に展示された
北前船の模型

 能登の北前船の歴史は、大坂に拠点を持つ近江商人の「雇われ船頭」として、輸送を委託されたことにはじまる。日本海に突き出る能登半島の人々は、遥か昔から船を操って漁業や交易をしていたため、海に出ての商売はお手の物だったろう。
 その後、蝦夷地まで延びた航路を活かし、蝦夷地からもたらされる交易品の輸送船として、能登の人々は近江商人から航海を任されていく。その経験によって商いのやり方を身に付けた者たちは、やがて自ら船を持つようになった。それが徐々に、能登が北前船によって繁栄していくきっかけになる。
濱岡さんが言う。
 「能登は平野が少ないため、米を生産しにくく、年貢米を積む”御用米船(ごようまいせん)”は成り立ちませんでした。ところが、能登の船主たちが栄えた理由は、逆にここにありました。御用米船は米しか積めませんが、北前船として廻船業を営めば、さまざまな品物を運べます。寄港地で物品を仕入れ、他所で売り捌いて商売を拡大していきました」
 廻船業で栄えた能登の豪商といえば、元禄期(1688〜1704)から文政期(1818〜1830)にかけて活躍した、久保屋喜兵衛(くぼやきへえ)が挙げられる。輪島の廻船問屋だった久保屋は、六百石から千石の三隻の船を所有して、大坂や新潟を拠点に海運活動を行なった。大坂では西国十余の藩の御蔵屋敷御銀方御用(おくらやしきおぎんかたごよう)も務めたという。
 久保屋はその海運力を活かし、小豆島(しょうどしま)産の御影石を大坂で切り分けて船で運び、享保2年(1717)には、輪島港近くの住吉神社に石造鳥居を建立している。住吉神社のすぐ前にあった屋敷は、奥行きだけでも現代の住宅の十数軒分あったと伝わる。
 また、一説によると、明治初頭には北海道江差町(えさしちょう)の住人の約四割が能登出身者だったという。当時の主要な交易品のひとつに、鰊(にしん)やその加工品があり、鰊を求めて能登から多くの北前船主が訪れ、住居を構えたためだ。廻船業を営んでいた「横山家(よこやまけ)」は、石川県珠洲(すず)市の出身で、北前船の時代から200年近く経った現在も、江差の地に「鰊御殿」と呼ばれる豪奢(ごうしゃ)な屋敷を残している。

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当時の繁栄を伝える町並み


曹洞宗の大本山の總持寺祖院。
かつては全国におよそ1万5000もの末寺を抱えていた。


日本海に沈む夕日

 門前に名物の蕎麦屋などが並ぶ、元亨(げんごう)元年(1321)に開創された曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山、總持寺(そうじじ)祖院は能登の観光スポットのひとつ。かつては總持寺も、全国の多くの末寺(まつじ)との間に僧侶を行き来させるのに海上交通を利用しており、情報や物品が集積する要になっていた。
 その近くに北前船で賑わった頃の町並みが残る。現在の輪島市門前町黒島地区である。能登瓦が黒光りする家々が軒を連ねる町並みを歩くと、細く曲がった道沿いには、下見板(したみいた)張りの壁が続く。
 数種の土蔵を持つ典型的な船問屋形式で造られた角海家(かどみけ)も、当時の繁栄を伝える家屋のひとつ。最盛期には、黒島の浦に40隻もの千石船が浮かんでいたそうだ。
 ところで、能登の北前船寄港地は小規模な港が多い。黒島港も然(しか)り。古くは大陸の勃海(ぼっかい)から使節が訪れ、日本最古の木造灯台である旧福浦(ふくら)灯台が残る福浦港も、切り込んだ入り江を見ると、大きな船を幾隻も停泊させるには困難であったろう。
 そのため、堤防などが整備されていなかった江戸時代、能登の北前船のほとんどは、冬の間は大坂に船を係留させていた。春になると塩や酒、調味料などの食料品や衣類、油、蝋(ろう)などの雑貨を積んで北上。寄港地で荷を売り捌きながら蝦夷地へ至った。そして、秋になると蝦夷地から昆布や鮭、肥料用の鰊のシメ粕などの海産物を積載して大坂に戻って売ったのである。
 北前船によってもたらされた様々な物資は、寄港地の人々の生活を豊かにし、船主たちもまた栄華を極めた。陸路が発達していなかった時代に、大きな輸送力を自在に操って各地を巡ることができた北前船とその船主たちは、ひとつの時代を築いたのである。
 明治時代も半ばになると、汽船が台頭し、通信技術も発達しはじめる。時間を短縮して、大量の物資や情報が行き来できるようになると、流通の形態は大きく変化し、北前船は姿を消していった。
 しかし、江戸時代から明治初期にかけて、日本の経済を動かしていたのは、まぎれもなく北前船であった。今日の食文化や輪島塗の発展に至るまで、能登の地にもその大いなる足跡は今も見つけられる。
 では、実際に船を所有していた能登人(のとびと)たちは、一体どのような視線で時代を見つめていたのか。次回は栄華を極めた上時国家と總持寺に焦点を当て、さらに北前船の深部を探る。


總持寺の門前町として栄えた輪島市黒島地区の町並み

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